岩手から帰ってきた赤シャツからのメッセージ

実家の岩手・釜石市で起こったこと。
                                  磯田 瑞貴
3月11日午後2時46分。この時間発生した地震(津波)により、私は沢山の知人、友人、家、思い出、そして故郷を失いました。
私は岩手県釜石市という沿岸部の出身です。釜石市という町は漁業、製鉄の町で、戦前は三陸大津波、戦後にはチリ沖地震により津波被害を受けた、震災、津波の歴史のある土地です。
地震発生時、私は神奈川自宅におり、地震の揺れの中、付けたテレビで三階建ての実家が海に飲み込まれる瞬間を目にしました。従兄の実家も海の中へ沈む瞬間を見ました。家族の安否は確認できず、不安と悲しさで押しつぶされそうになりました。
従兄も神奈川住みなため連絡を取り合い、直ぐに合流し「何か出来ることをする」のではなく「何かしなくてはならない」という使命感に襲われ、故郷へ向かう決断をしました。家族の死を可能性は非常に高く、長男として遺体を処理するという覚悟もしていました。   
高速道路は通行止め、一般道路も地割れや土砂崩れにより通行止めが多数あったため、神奈川の友人の情報、車のナビを使い、交代で寝ずに車を運転し走り続けました。「寝ている時間があるのなら少しでも釜石に近づきたい」という一心でした。
約3日かけて釜石に到着しました。私の育った街の面影はまったくありませんでした。見渡すかぎりの瓦礫の山のため道がなく自分が何処にいるかわかりませんでした。少し歩いただけで体中が泥だらけになる状態。潮の臭いのような、何かが腐ったような、嗅いだ時の無い独特な異臭。歩くのにも自分で道を作り崩れた民家などの上を歩きました。泣き崩れている人々達。何かを探す人達。放心状態の人達。これほど酷い状態であるとは思いませんでした。

国の対応がまったくされていなかったため、地元の方々が自ら瓦礫を撤去しながら人を探しては遺体を回収している状態でありました。そのため何度も私も遺体を目にしました。津波の水により身体全体の皮膚がふやけ、色々な物などによって傷だらけにより顔が分からない。そんな無残な状態の遺体ばかりでした。他には土の中から手だけが見えている状態の遺体も目にし、数少ない建物内には沢山の遺体が引っ掛かっていました。
朝から家族の安否の手がかりを探すも、人が多く混乱状態。色々な非難場所を周り、避難者名簿を探すも家族の名前は見つける事ができませんでした。あっという間に日も暮れはじめ手がかりが一つも掴めずない状態で不安が一気に込み上げ、絶望に包まれました。途方にくれている中、知人と再会する事が出来ました。安否を確認するも知人も私の家族の生存を知らず、最悪の事も考えるべきだと言われました。しかし、私の実家の家業の営業店に人が群がっていたという情報をもらいました。少しの手がかりを頼りに、急いで営業店に向かうと人が沢山群がっていました。人を押し分けて店の中に入ると父の姿がありました。父は私達の姿を見ると立ち上がり、私は抱き合いながら再会を果たしました。その後、母、祖父、祖母とも再会し、祖父からとは何度も抱き合い再会を喜びました。
私の家族は生きていたのは奇跡でした。両親はとっさの判断で、非難場所には逃げず4階建てのビル屋上の貯水タンクの上に昇り助かりました。その震災当時、両親の周りいた知人はほとんどが非難場所に逃げましが津波によって流され全て遺体としてみつかりました。
祖父と祖母は、普段通っているデイサービスとは違う、新しいデイサービスを見学に行っていたため助かりました。普段のように家にいても、普段通っているデイサービスにいても命はありませんでした。
毎日のように、友人や知人の悲報を耳にしました。しかし悲報を聞くも私は何を共感して、その人のために何を想い、何と言葉に出せばいいか都度悩みました。「頑張れ。」「応援している。」どの言葉も適していなく、頷く事しかできず、大切な人達を突然失った人の悲しみは測り知れませんでした。しかし最後に言葉にするのは「仕方がない。自分が助かっただけでも奇跡」と口にしていました。
被災により色々な事を体験しましたが書ききれないため、ここから私事ではなく介護職員からの視点で震災から約2週間の被災地の現場の事を書かせていただきます。外部の派遣介護職員が現場に浸透するまで約2週間ありました。
私は日中、地元地域の方々と、実家、実家周辺の瓦礫撤去作業を行っていました。しかし作業ができるのは電気がないため明るい時間のです。しかも14時~15時になると地盤沈下、満潮により海が広がるため作業が出来ないためです。そのため午後は祖父、祖母のいる避難場所に行く徒歩で10キロ往復する事が、ほぼ毎日でした。
施設では緊急用の自家発電機で発電は行っていましたが、暗い状態ではありました。施設の3階分の利用者達を3階の1フロアに集めていたため、廊下にはビッシリとベッドと布団が並んでいました。1階は緊急の医療現場に、2階は一般市民の避難場所になっていました。
私の祖父、祖母も要介護者です。しかし祖父、祖母は定員オーバーにより施設には入れなかったため、小さな避難場所いました。そこには約30名。日夜通し介護職員は約2名、市役所の人間が1名(受付)という人員配置になっていました。施設などに入れない要介護者が集められたこのような小さな避難場所は至る所にあり、介護職員の配置は手薄になっている上、職員の体力も限界に達していました。
「故郷のために何か出来ることをする」のではなく「故郷のために何かしなくてはならない」現状。力になりたいという一心で手伝いを申し入れ、空いた少ない時間のみではありましたが介護職員として手伝わせていただきました。私が約2年で培った「介護職員としてのスキルはどこまで通用するか。」内心闘志が燃えました。
プランも無い。情報もない。設備もない。道具も無い。その場でどのような人か、どのような介護が必要か判断して行う必要がありましたが、一生懸命お手伝いさせて頂きました。
私も感じだていた事ですが、2週間近く入浴する事ができなかったため「お風呂に入りたい」と強く思っていました。その中、閉店していたはずの銭湯が無料で一般市民に開放し入浴する事ができるようになりました。早速足を運び久しぶりの湯につかりました。ふと「爺ちゃんも風呂入りたいよな」と思い、幸い非難場所から近かったため、銭湯の人に交渉し営業時間前なら利用しても良いという許可をいただきました。そして次の日、祖父や他のご老人を連れて銭湯へお連れし入浴のお手伝いをさせていただきました。この時言われた「ありがとう」はとても重く、介護に携わる人間として心地よい達成感を味わいました。
その後は外部からの介護職員も加わり徐々にですが介護面での混乱も減っていきました。介護職員だけではなく、外部からは色々なボランティアの方がいらっしゃっていただき、人の暖かさを感じる事ができました。
この東日本大震災により、私は「大切なもの」を沢山失いすぎました。人。物。家。故郷。思い出。私の記憶の中にある釜石市という街を、もう二度とみる事が出来ない。しかし沢山失いすぎましたが、人としての「大切なこと」を沢山学ばせていただきました。
そして震災があったとはいえ、私の身勝手な行動を応援してくださった中心会の職員、心配してくださった利用者の方々にこの場をお借りしお礼を言わせてください。
「本当にありがとうございました」